かつて日本には日本曲馬という馬上での曲乗りがあり、世評も高かった。
1800年頃に全盛を極め、早替わりや歌舞伎狂言を取り入れた曲馬芝居が演じられるようになってからは、演劇的要素を帯びた曲馬が日本曲馬の主流となった。
元治元年(1864)アメリカのリズリー・サーカスが横浜に来日。興行がなされた。
それぞれ芸種別に一座を組んで個々に興行を行うというスタイルが一般的だった日本では、様々な演目を一度に見せるというサーカスは大きな反響を呼んだ。
2回目は明治4年(1871)フランスのスリエ曲馬団が来日。
3回目は明治19年(1886)にイタリアからきたチャリネ曲馬団が来日し、猛獣を含むサーカス興行は一大センセーションを巻き起こした。
チャリネは明治22年(1889)再度来日し、西洋曲馬と言えばチャリネと言わしめるほどの大きな反響を残し、以降サーカスをチャリネと呼ぶ人もあった。
この公演に強い衝撃を受けた五代目尾上菊五郎は『鳴響茶利音曲馬』という猛獣使いなどが登場する歌舞伎を上演している。
その後も大きな興行団ではないが外人曲馬師たちが来日している。
明治以降、曲馬・馬術のような類からしだいにサーカスの形態に近づいていきサーカスの原型があらわれてきて、いわば近代サーカスの芽が明治20年前後にでてきたといえる。
日本人のサーカスとしては、チャリネ一座から名前をとり、1899年に山本政七らによって設立された「日本チャリネ一座」が最初であるとされる。
日本チャリネ一座では馬や象、熊なども用いて曲芸や猛獣芸などを披露した。
曲馬団は明治中期から新しい見世物の雄として脚光を浴びるが、大正期に入って進展して活躍していったもののこの時代なりに活動写真、電気仕掛の見世物などの娯楽が増えかげりが見え始めた。
曲馬団という名称は昭和初頭まで続いたが、団員150名、182頭猛獣を引き連れて昭和8年(1933)に世界一の動物調教を誇るドイツのハーゲンベック・サーカスが来日し、日本国中で異常な人気を得た。
これをきっかけに日本の曲馬団は全国的にサーカスと名乗るようになり、サーカスは庶民の娯楽として定着した。
黄金期を迎え昭和17年(1942)には全部で約33ほどあったサーカス団も、太平洋戦争で芸人も若い衆も徴兵に駆り立てられ、戦時中は国内情勢強化という理由で全猛獣を毒殺または銃殺し、手足をもぎ取られたと同然の状態まで追い込まれたサーカスは残った者達で細々と慰問興行を行っていた。
1992年テレビ局のタイアップでシルク・ドゥ・ソレイユが来日。
再びサーカスブームが訪れる。
その効果からテレビアニメカレイドスターやテレビCM鉄骨飲料などサーカスを取り上げたものが多くテレビで放送された。